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海のシルクロード

普通シルクロードと言えば、張騫が切り開いた中央アジアの乾燥地帯を抜けたオアシス路を指しますが、実は、後もう2本のシルクロードがあるのです。

1本は四川から雲南を経て、ミャンマー北部を通りインド東北部に着き、また川を経由してインド西北部海のシルクロードへ進み、イラン高原にたどり着く、所謂西南シルクロードです。このシルクロードの歴史は陸上シルクロードよりもっと早いのです。この間四川省三星堆で3000年前の西アジアとギリシャ文化の特徴がある遺跡が発見されることはこの道が存在していた明証です。

もう1本はアジア大陸の南の海を結んだ南海シルクロードです。南海シルクロードは広州から海に出て、満剌加海峡(今のマラッカ海峡)を通り、錫蘭(今のスリランカ)、インドなどを経由して、東アフリカにたどり着く道です。東アフリカのソマリなどで出土された文物によって、「海上シルクロード」が宋の時代(紀元960年―1126年)に既にあったことが分かりました。

すでにプトレマイオス朝の時代からエジプトは紅海の港からインドと通商を行っており、エジプトを征服した古代ローマはこの貿易路も継承して、南インドにアメリカドゥなどいくつかの商業拠点を築き、絹を求めて中国にまで達したことは中国史書にも記載されています。古代にはマラッカ海峡はあまり使われず、マレー半島のクラ地峡を横断するルートが多かったのです。このルートでセイロン(獅子国)やインド、ペルシアの商人も中国に赴いたのです。陸のシルクロードは諸国の戦争でしばしば中断を余儀なくされたのに対し、海のシルクロードを遮るものはありませんでした。

7世紀以降はペルシアの交通路を継承したイスラム商人(アラブ人、ペルシア人等の西アジア出身のイスラム教徒商人)が絹を求めて大挙中国を訪れ、広州などに居留地を築いたのです。中国のイスラム教徒居留地は黄巣の乱によって大打撃を受け、一時後退しましたが、宋代になると再び中国各地に進出し、元代まで続きました。明は海禁政策を取り、朝貢貿易しか認めず、16世紀には喜望峰経由でポルトガルが進出したため、イスラム商人の交易ルートは衰えました。